辺境にて

南洋幻想の涯て

蝿の王

 今夕も校長室から投げ釣りをする。今日はトラボルタの他に滝の集落のMさんも居る。

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 Mさんはビールを半分飲むとトマトジュースを足す。レッドアイだったかブラッディアイだったか忘れたがこうして飲むと確かに美味しい。そしてグラスを貸そうとしても洗い物が増えると遠慮して使わない。

 トラボルタはMさんと会うのは2度目だが、人見知りを発揮してとても静かだ。Mさんもグイグイ行く方ではない。つまり2人ともいつもより少し静かだ。ついでに海まで静かで全くアタリが無い。今回も豊漁の神リザードマンに「れんと」を供えてはいるのだがダメだ。もう成仏したのに違いないと結論し、天国でも麻雀をしているだろうか。そもそも天国に雀荘はあるのだろうかと議題は移る。魚は釣れない。バーベキューの食材に獲らぬ釣魚を数えてしまっているため、このままでは食糧難だ。

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 釣魚と言えば魔王から、今回魚が釣れたら内臓は捨てずに呉れと言われている。どうせ釣るのもさばくのもトラボルタだから伝えておいた。

 「何に使うんスか?」

 蝿を沸かすためだ。マンゴーはもう花が咲いている。その受粉に蝿を使うのだ。業者から蜜蜂をレンタルして受粉させる方法もあるのだが、彼らは勤務時間がきっちりと決まっていて朝から夕方までしか勤務しない。会社勤めのようなものだ。蜂社会はイメージよりホワイトらしく、こちらがいくらお願いしてみても残業はしない。

 

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ベンガル嬢は働かない。ベンガルクイーンだ。今日は網で魚をすくうのだそうだ。

 

 一方蝿は一人親方なので働けるだけ働く。インボイスに対応できずポトポト死ぬのは憐れみをさそう。減ってくると魚の内臓やアラで新たに召喚し、また働かせる。

 魔王は、こんなに役に立つのに嫌われて可哀想といったことを言うが、やはりイメージが悪いと思うらしい。蝿を使っている事は農家以外の人にあまり言わない方が良いと言う。断っておくがこうしてマンゴーの受粉に蝿を使うのは違法ではない。

 という事をトラボルタに説明するのが面倒くさかったので、「内臓は…蝿の儀式に使う…」とうまく誤魔化しておいた。

 「気持ち悪!ああ、受粉スか」

 なんだ知っていたのか。

 結局この夜は一匹も釣れず、魚の鰓や内臓は入手できなかった。今年はマンゴーの花が少ない。その少ない花をなんとか結実させなければならない。そのためには蝿が必要だ。

 

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ビーツの芽が出た。

 

 翌日は初めて一人で釣りをした。糸を結ぶのすら人任せなので誰かに誘われた時しか釣りに行かない。だが今はルアー竿にワームが付いている。

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 この糸を切れさせないように釣ってみよう。これが切れたら終了だ。

 …2、3度投げていると細かな虫が集まってきた。エッチ虫だ!竿もたたまずに廃校へ逃げ戻った。ついにこの島で最悪の数ヶ月が始まった。エッチ虫の次はアブが大発生する。そして梅雨の終わりに白蟻が三度飛ぶと、この地獄の季節はようやく終わる。それから長い夏が始まるのだ。

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魔王の漬けたフルを分けてもらった。美味しい。

 金曜日の夜。木工棟梁三線を習いに行く。木工棟梁は三線の先生にジョブチェンジした。

 三線はまだ二回目の授業だ。まずは「ヨイスラ節」を習っている。終わると一緒に釣りに行った。

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 三線の先生は親切で何でもしてくれるが少々距離感が近いと感じる事がある。彼に内地から来客があるたび、何故か私のデッキを自分の物のように見せて自慢をし、ついでに校長室をノックする。

 こちらからすると、部屋で寛いでいるのに突然人を伴って現れるので落ち着かない。庭から急に人声が聞こえてくるとどうしても身構える。動物園の動物のストレスが解る。

 また暇人トラボルタよりさらにラインや電話をして来るので、着信履歴が三線の先生で埋まっている。しかし良い人ではあるから無碍にも出来ない。なんとか私のストレスにならない距離に持って行きたいものだ。とりあえずデッキの事はやんわりと伝えた。三線の先生はそうかスマンスマンと言った。

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 二人で夜の桟橋から釣りをする。竿には前回のままワームが付いている。何投してもなんの反応もない。夜はまだ少し寒い。

 やがて三線の先生がイキャを釣った。単純なもので、魚は釣れなくてもイキャなら釣れるのだと判断した私は、ルアーをイキャ用の餌木に変える事にした。


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 距離が近すぎると感じているのに都合の良い時だけ頼るわけにもいかない。だから糸は自分で結ばなければならない。

 ランタンの灯りの元、ネットを見ながらどうにか「電車結び」と「ユニノット」を作った。15分もかかったがこれで自信がついた。当分はネットを見ながらだが、それでも出来ると言うのは0と1の違いだ。天と地よりも差がある。

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よくみると私の安眠を妨げる憎きネズミのような顔をしている。

 嬉々として袈裟斬りの要領で投げる。餌木が重く竿が折れそうにしなる。見かねた三線の先生が正しい振り方を教えてくれたので改善した。軽い力で飛ぶようになったがまた世話になってしまった。

 そして今夜も釣れなかった。まあ糸が結べるようになったので良い。今後は誰かの手を借りなくても一応釣りはできる。一歩前進だ。

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 翌日。曇天の夕方、エッチ虫の居ないのを確認して桟橋へ出る。アプリによると今がチャンスだ。海の神様、私に内臓を与えて下さい。内臓だけで泳いでいればいいのに。

 だが願いも虚しくたったの一投目で夕立に見舞われ、また空振りに終わる。

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 蝿が手に入らない。

 最初、受粉に使うのを知った時嫌悪感を抱いた蝿だが、懸命に畑を手伝ってくれる姿を見ていると可愛く思えてきた。メタリックグリーンの体色や赤い目もよく見れば綺麗だ。なにより刺さない。また、もともと生息している生物を使うのでビニールハウスから逃げ出しても環境への影響も無い。私はすっかり蝿派になってしまった。

 これからこの島は虫による地獄の季節だが、世界的には昆虫が激減しているそうだ。現代が「昆虫の終末期」との指摘まで有るらしい。

 特に家畜としても重要な蜜蜂の個体数が減少し、世界的に問題化している。そこで送粉昆虫としての蝿に注目が集まり、マンゴー以外にもナスやトマトをはじめとした作物での受粉実験が始まっているそうだ。そういう記事を読んだ。苺では良い結果が得られたと書いてあった。昆虫たちの黄昏、畑には蝿の時代が来るかもしれない。その時私はマンゴーのビニールハウスを増やし、今の自然環境の最後の輝きを蝿たちと共に謳歌する。三線を弾いて酒を酌み交わそう。夢のある話だ。まずは彼らのために泳ぐ内臓を釣らねば。

 

 翌日、伐採帰りにスュリに寄る。畑仕事だ。庭に魔王がいた。もう蝿はいらないと言う。蜂をもらったようだ。

 金色の斜陽に包まれるサトウキビ畑がとても奇麗だ。蝿派や蜂派なんてそもそも無かったのだ。やがて陽が沈み、あらゆる熱が冷めていくのを感じながらタンカン畑へ向かう。

 

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